混乱と狂気の中を進む物語。
小説の中の連続殺人犯を 模倣するのは誰だ―? 狙われたのは〈怪物〉の生みの親の売れない小説家。 スペインで話題沸騰の震撼スリラー!
連続誘拐殺人犯〈怪物〉が登場するミステリ小説が大ヒットし、一躍時の人となった作家ディエゴ。だがその後は何を書いても鳴かず飛ばずで、気づけば10年が経っていた。そんなある夜ディエゴが帰宅すると、7歳の娘の姿がどこにもなく書斎が血まみれに。呆然とするディエゴが目にしたのは一通の黒い封筒。それは小説の中で、少女を誘拐した〈怪物〉が現場に残していくものと同じで─。
フェリクス・J・パルマ「怪物のゲーム」を読みました。
主人公のディエゴは10年前にベストセラー「怪物」で世界中の人々を恐怖で熱狂させた作家だが、それ以来は鳴かず飛ばずで見向きもされず、担当編集からはそろそろ見放されようとしていた。そんな彼の1人娘が何者かに誘拐され、その誘拐犯は彼の著書に出て来る狂気の外科医「怪物」を名乗り小説の模倣犯とも言える過酷なゲームを仕掛けてくるのであった...。
と言うのが物語の導入部分。
本作の舞台はスペイン、バルセロナ。建物の外観や生活空間の描写が多く、普通の民家からどこかくたびれた警察署、上流階級の住む豪邸までイメージしやすい点は助かりました。舞台の具体的な年数は書かれていませんが、普通に携帯電話やSNSが登場するのでざっくり現代で良さそうです。作中描写だけではスマホかガラケーかは分かりませんが、基本的に通話にしか携帯電話を利用していないのでガラケー主流の時代背景なのかも?
作品タイトルにも入っているように、ディエゴ自身が小説内に生みだした「怪物」を名乗る者が娘を誘拐、娘を開放するための3つの「ゲーム」に挑戦する過程が描かれます。ディエゴ達のいる作品世界は魔法の存在するような不思議な空間ではないため、メタ的に考えれば模倣犯ということになりますが、模倣犯と割り切るどころかディエゴ本人にとってもどこまでが現実でどこまでが悪夢や幻覚なのか判別できない混乱と狂気の描写が秀逸だったと感じます。
妻のラウラ、誘拐された娘のアリ、友人で警部のルカモラ、幼少期から不仲の兄エクトルなど多様な登場人物とディエゴの関係性や知らなかった事実が「ゲーム」の進行とともに変化していく部分にもストーリー性があります。
しかし、個人的には本作がこのストーリー性を重視してしまったがために中途半端な終わりを迎えてしまったようにも感じています。
ここで本編中でも引用されている名著「一九八四年」と物語の構成を比較していきます。
「一九八四年」は思想や行動が徹底的に統制された全体主義国家を舞台にしたディストピアSFです。主人公のウィンストン・スミスは旧英国のロンドンで真理省に勤める下級役人。作中の前半は "善良な" 統括市民の視点から管理社会を描くパート、後半は "思想犯罪" を犯した罪で拷問に晒され続けて狂気と混乱に満ち、現実と幻覚の見分けがつかなくなる倒錯的な描写が読者をも混乱させる点で非常にうまい構成になっています。ウィンストンを取り巻くストーリー性は前半パートに詰まっていると思いきや、拷問主体の後半パートでは直接的に、また、本編から独立した附録では間接的にウィンストンの生きた全体主義国家の顛末がうかがえる後世になっています。
混乱や狂気を描くにあたって、ストーリーを噛み砕くような理路整然とした思考は読者を現実世界に引き戻してしまう効果があると考えており、その点で本編では狂気を描き切り、附録では学術書のようにきっちりと設定を明かす「一九八四年」の構成に魅力を感じたのだと思います。
話を「怪物のゲーム」に戻しますと、附録は存在しないので狂気パートとストーリーを同時進行で描く必要が出ており頭が付いていかないこともしばしば…。この辺りは読者の好みによる部分が大きいと思いますが、作中に出て来る「怪物」に侵略されていくディエゴの世界がすっぱりと解決されてしまったあたりはちょっと淡泊だったかも?
ひと欠片でもいいから狂気の種を残すような不穏エンドが好きな自分の性格の悪さが出ていますね(笑)
上下巻編成という事もあり、短期間でガッツリ読みふけるというよりも時間をかけて少しずつ読み込んでいくくらいがちょど良いのかもしれません。登場人物を取り巻くストーリー性自体は引き込まれるものがあったので興味の湧いた方はぜひどうぞ。
ではでは