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「星をつくる兵器と満天の星 ~中村朝 連作集~」を読んだ

"この作品はフィクションです。作品の性質上、倫理的の問題があると感じられる内容を一部含みますが、あくまで創作であり、現実とは異なるという事を予めご了承ください。"(原文ママ

 

 

でもそれを受け入れられる人にはマジで読んで欲しい!!!!

 

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www.mag-garden.co.jp

 

「星をつくる兵器と満天の星 ~中村朝 連作集~」を読みました。

実を言うとこの作品の事を何も知らずに手に取りました。いわゆるジャケ買いってやつです。欲しかった本が置いてなかったから代わりに手に取ったくらいの軽い気持ちで買ったのですが、めttっっっっちゃくちゃ素晴らしかったので五体投地でごめんなさいしてます。いま。

 

本作は「アップルピエタ」「長足ギイの帰還」「星をつくる兵器と満天の星」の3作品からなる単行本。短篇集とは少し趣が異なり、3つの作品が繋がった連作集となっています。発行はマッグガーデンとなっていますが、前2作品は著者の同人活動時代の作品、表題にもなっている「星をつくる~」が月刊コミックガーデン掲載策との事。ネームを切ったのは3作一緒で10年前なのにペン入れはバラバラの時期と、まさに奇跡を繋げ合わせたかのような1冊となっています。

これら3作には共通した「過激な」世界観があり、人によっては受け入れられない方もいると思うので注意書きのような意味合いでマンガ冒頭の一節を引用します。

 

"その時代 太陽電磁波による 通信障害や 温暖化 資源の枯渇で

 世界情勢は悪化し あちこちで 戦争が始まる ようになった

 それに伴い 命の価値は 安くなっていき

 人はついに 生き物を 改造しはじめた"

 

帯に書かれた煽り文句は『魂揺さぶる「生きる兵器」達の名も無き物語』。

もうお分かりかと思いますが、本作ではヒトを改造して兵器として運用するような世界線のSFクロニクルです。設定的に改造人間が出て来るというレベルでは無く、生命倫理にガッツリ噛んでくるシナリオとなっていますので、万人が許容できるとは限りませんのでその点だけはご了承ください。この日記の冒頭に書いた一節もそういう意味の注意書きとなります。

その一方で、自分を含めてこういうお話が好物と言う人がいるのもまた事実。こっち側の人には超刺さる内容になっておりますので是非読んで欲しいです!同時発売でもう1冊「天帝少年」という本も出ているようなので、次に本屋へ寄る際にぜひ買ってこようと思います。

 

 

一部試し読みはこちら↓

magcomi.com

 

 

 

ここから先はネタバレありの感想と考察になります。

 

この作品の特に秀でた部分を挙げるなら、1作目にあたる「アップルピエタ」の主人公・赤井柊の持つ "異常性" を紐解く過程が、以降続く連作全ての問題へダイレクトに繋がっている事でしょうか?

赤井柊は心理学部に通う大学生。父親が稀代の連続快楽殺人犯であることを除けば、彼は良い教育環境・良い人間関係・良い評価を得た一般人。殺人鬼の息子は殺人鬼であると決めつけるなんて、それは違うのではないかと突っ込みたくもなるのが普通だが、彼の場合はどうも事情が違うらしい。彼は生まれながらにして死に快楽を抱く「殺戮衝動」なる習性を持っていた。周囲の人間が「お前は良い奴だ」「殺戮衝動を抑えているのは善と同じだけの価値がある」と何度説こうと彼にとっては全て的外れな言動でしか無い。なぜなら彼自身も教育により「人を殺すことは良くない事」だと理解しているし、理解した上で「あぁ、人を殺したいなぁ」と本質的に感じているのだ。

これは「殺戮衝動」を持つ本人からすれば単純な話のようでいて、他者から見ると全く理解できない難解な問題になってしまう。赤井柊自身としては存在の在り方(be)の話をしているのに、他者は行い(do)の話をしている。これでは永遠に話が噛み合わない。

作中でも赤井柊は自身について「『まだ』殺人を犯してないだけ」で「殺戮衝動」を持つこと自体は否定していない。それどころか行い(do)に対する指摘をする相手に対しては「殺したい(けど悪いことだと考えているから殺さない)」と言ってのける究極の在り方(be)を持っている。

少し話がそれてしまうが、このすれ違い構造は性同一性障害の話に似ていると感じた。例えば「生物学的には男性の肉体だが精神的には自信を女性と認識している人物A」が居たとする。Aは自身の在り方に基づき男性の肉体(be)女性としての振る舞い(do)をするが、女性の肉体(be)女性の振る舞い(be)をすることとは本質的に違うし、ましてや、Aが誰かを騙す目的でbedoを使い分けているなんて事は話が全く異なる。このあたりの話題に関しては近年議論が盛んになってきており、専門家でない自分でもこの程度の議論に参加できる程度にはなっている。

では話を本作に戻してみよう。「今のところ一般生活を問題なく過ごせる(do)が、本質的にどうしようもなく人を殺したい『殺戮衝動』を持って生まれた(be)人物、赤井柊」はどういう位置付けになるだろうか?性同一性障害の人物Aに照らし合わせるならば、こんな感じではないでしょうか?

 

「お前(赤井柊)は良い奴だ」と一方的に言われる=「あなた(A)は女性です。なぜならあなた本人が女性としての振る舞いをしているように私には見えるからです。生物学的肉体に関しては一切考慮しませんし、議論をすることも禁じます」と言われる。

 

「悪(殺戮衝動)を抑えているのは善と同じだけの価値がある」と言われる=「性同一性障害を抱えながら一般生活に溶け込んでいる努力はそれだけで尊い」と言われる。

 

はぁ~~?って感じませんか?何傲慢なこと言ってんだと。

赤井柊も人物Aも誰かに評価される対象になりたくて行動を選んでる訳では無く、敢えて言うなら自分が納得できる生き方をしたいだけ。他人にとやかく言われる筋合いはねーぞ、と。

 

性同一性障害の場合、本質的な解決とは異なったとしても性転換手術という肉体側(be?)の改造と言う手段が現代科学でも一応可能ですが、赤井柊の場合「殺戮衝動」(be)の完全制御や除去といった技術は全くのブラックボックス状態。これは困った。

そこへ降ってきたのが「生きる兵器」の管理者という仕事。ここでいう「生きる兵器」とは1人で戦況をひっくり返すだけの戦力を有した戦争用人造生物を指し、本作の核となる存在です。ふぅ、ようやくここまで来たわね。

 

本作の「生きる兵器」は暴走を防ぐため、命令が無いと動くことが出来ないよう教育されています。当然ながら兵器である彼らは存在・目的そのものが戦争終結に向けた殺人であり、彼らに命令を下す管理者も常に殺人と向き合う必要があるのですが、まぁ全うな人間であれば「生きる兵器」に感情移入しやすく精神を病みやすい。かと言って共感性の低い者やAIに管理を任せると過剰な殺戮に走ってしまいよろしくない。その点では「殺戮衝動」を持った赤井柊は根本的に殺人をしたいと考えているので病むことは無く、また、理性で衝動を抑えることが(今のところ)可能なため過剰な殺戮には走らない。管理者としての資質は完璧です。

また、管理者の仕事は赤井柊にとってもメリットがありました。この作品世界ではクローン技術により肉体だけを作り直す「アンコール」、作り直した肉体に記憶を継承させる「リバイバル」という2種類の技術が存在します。まぁ、そこはSFですからね。赤井柊は幸せに生きるために作られなかった「生きる兵器」、ひいては、「殺戮衝動」を持って生まれた自分自身が奇跡に頼ることなく周囲と共存できるのか知る為に3桁の年月を「リバイバル」で生き続けます。見た目は青年ですが中身は仙人です。

彼の生体データ、および、死体は全て殺戮衝動の研究素材として使われることを赤井柊自身が望んでいます。そのため記憶の継承がなされない「アンコール」は技術流出の恐れがあるため禁じましたが敵国も必死ですので何度かの漏れがあったようです。赤井柊の管理者就任から世界は「生きる兵器」の乱用時代に突入するのでした...。

 

収録2作目となる「長足ギイの帰還」では、「生きる兵器」ギイの管理者が感情移入して人間のように扱ったたことに対し、赤井柊リバイバルは「人間の役に立つように造られている兵器に人間が滅私奉公してどうする」と諫めます。しかしこの後、わずかながら感情を手にした(手にしてしまった)ギイは重要な戦局の中、命令無しの状態から自己判断でベストを尽くす兵器としてのファインプレーを魅せました。いや、普通に暴走案件と取られてもおかしく無いのですが、赤井柊の考えに僅かな変化を与えたようです。

 

収録3作目であり表題作となっている「星をつくる兵器と満天の星」では、激戦区での活躍を認められ撃滅勲章まで授与された「生きる兵器」テツが、休戦状態となったことで自身の役割を失い自ら解体処分を望みます。そこへ割って入ってきたのは物語中テツに命を救われた人間マハ。どうせ解体してしまうなら命の恩人のテツと共に暮らしたいから譲ってくれと言うのだ。赤井柊は当然「どんなに頑張ってもテツを普通の人間に作り替えることはできないからお引き取りください」と告げるが、それに対しマハは「兵器のことについて私が学ぶことで私たちが変わる」と宣言する。

「兵器が人に完全に合わせるのが無理なら、人間の方も変わればいいのよ。一緒に生きていくために」

このマハの言葉にしばし思考を巡らせた後、赤井柊はテツの譲渡と可能な限りの情報開示を約束するのでした。これには感情を持つことで成果を上げたギイとテツ、2体の「生きる兵器」の戦果もあったでしょうが、殺戮存在である兵器や自身が変わるのではなく周りが変わるのだという主張に一理あるとする考えが強かったように思えます。

 

物語はここで幕を降ろしますが、人間と「生きる兵器」達の間に友好的関係は築けるのでしょうか?個人的な感想としてはおそらく無理だろうと思います。例外的にテツとマハの関係が続いたとして、それが他個体に影響する因子とならないからです。

一方で、作中終盤では戦況はどんどん悪化し、「生きる兵器」の数は増え続け、人間の数は減り続けた結果、人間と兵器の数は同程度になってきているそうです。もうこれではどちらがマイノリティかわかりませんね。この状況を踏まえた上でマイノリティが抱えていた社会での生き辛さが相対的に軽くなることは考えられます。さらに数的関係が逆転すれば「なぜ人間は殺すことに躊躇してしまうんだ。生きる兵器たちは普通に実行できるのに...」なんて悩みも出てくるかもしれません。

 

当初赤井柊が抱えていた "異常性" に対する回答を度重なるリバイバルによって得られたかと言えばNoでしょう。「生きる兵器」の持つ倫理的問題も一切解決しているようには見えません。あったのは一部の特例と数的関係の変化のみです。異常な存在が異常なまま(be)成すこと(do)を変えずにありのまま生きるためには環境の方から寄りそう必要もあるのかなぁと少し考えさせられました。

 

明確な答えなどもちろん本書に書かれているはずもありませんが、魂を揺さぶる名作なのは間違いないと思いますので、ぜひお手に取ってみてください。

 

ではでは