4画面の雑記帳

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カミュ「ペスト」を読んだ

本作はフィクションです。

 

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www.shinchosha.co.jp

 

カミュの「ペスト」を読みました。ご時世柄と言いますか、コロナ禍で読んでおきたい1冊だなと。

本作は感染症が蔓延し、街1つが完全にロックダウンされた中で繰り広げられる人々の変遷を描いた作品となります。冒頭でも触れましたが本作はフィクションです。フィクションのはずなのですが、そこに描かれたあらゆる人々の動きはコロナ禍で我々が目にした光景と驚くほど酷似していました。

 

物語の舞台は194X年、地中海に面した北アフリカに位置するアルジェリア(当時フランス領)で人口20万人を抱えるオラン市。気候の関係から夏は酷く乾燥し、秋は土砂降りの日が続く商業都市で、この街で働く医師のリウーが鼠の死体をいくつか発見する所から物語は始まります。

 

先にタイトルにもなっているペストについて少しだけ触れておきます。ペストはネズミやネズミに付くノミを媒介したペスト菌によって引き起こされる致死率の高い細菌性感染症です。物語冒頭でネズミの死体が多数発見されるのはペスト流行の予兆であり、現実世界でも同様の光景がみられるとのこと。日本では馴染みが薄いものの、ヨーロッパ~中央アジアでは歴史的な大流行が3度確認されており、1346年に始まった第2回流行ではヨーロッパ人口(当時)の3分の1にあたる2000-3000万人が亡くなる黒死病として猛威を振るったとされています。

www.city.yokohama.lg.jp

 

勘違いの無いように敢えて書きますが、細菌とウィルスは全くの別物で、当然ペスト菌と新型コロナウィルスも全く異なるものです。ただ、本書で描かれる目に見えない感染症に対する人々の行動が、現代の我々にかなり似通っていると感じたのも事実です。ここでは本書で描かれたペスト感染症と、今現在我々が対峙している新型コロナウイルス感染症を比較し、人々がどのように動くのか類似点と差違について比較しながら書いていきたいと思います。

 

 

1. ペストで無かったとしてもペストと同じ防疫措置を適応すべき

物語の序盤で最初の犠牲者が発見された後、さらに複数人が同様の症状を発症して亡くなります。答えを知っている我々読者からしてみればペストの初期感染者だと断言できるのですが、物語の登場人物達にとって簡単にはいきません。かいつまんで状況を箇条書きにしてみるとこんな感じです。

 

・現場医師「ペストの症状によく似た死者が続出している」

・分析試験官「ペスト菌によく似ているが過去のデータと完全一致しない」

・県知事「ペストだと断言してくれないと法的強硬措置は発令できない」

 

うーむ、どこかで見た事のあるような光景ですね...?

この物語で出て来るペスト菌はどうも過去のものとは少々異なる新型らしく、ペストだと断言はできない。ただし症状・死傷者数はペストのそれと変わらない。その状況を理解しつつも為政者としては専門家の言質を取りたい。

これ以上ない程綺麗に描かれた典型的な初期対応の遅れです。最終的に「たとえこれがペストでなくても、ペストの際に指定される予防措置を適応すべき」「この病があたかもペストであるかのごとく振舞わなければならない」という落としどころに着地するのですが、それが言えるなら一晩中かけて議論してる場合じゃないだろ!って一人で突っ込み入れてました。いや、一晩で済んでよかったかな...。

どの分野においても同じことが言えるのですが、科学の世界で何かを断言するのってすごい難しいことなんですよ。それこそ何年もかけてデータを取って批判・検討に耐えた後にようやく「どうやら確からしい」程度が言えるレベル。一方で証拠も無しに街1つのロックダウンは発令できないと言うジレンマ。

我々の置かれたコロナ禍においても、民主主義色の強い国よりも独裁色が強い国や強力なトップダウン色の強い組織で早期対応が進んでいたのがなんとなく分かりました。

 

 

2. 俺はペストに罹ったと叫ぶ者

初期対応が遅れて感染症が蔓延した状態の後、街1つを完全に隔離するロックダウンが発令されると、まさかの「俺はコロナだ」おじさんが登場。「俺はペストに感染している!」と叫びながら他人に抱き着く有り様。こういうのってどういう心理から来てるんでしょうね?仮に他人と違う事をして目立ちたいんだとしても、本書の発行された1947年には小説の描写になってしまうくらいには平凡な行為です。70年遅れ乙。

 

 

3. ペストは神が人に与えし天罰

物語が中盤に差し掛かる頃、ペストなるものが街に蔓延していると知った民衆がどよめき始めると、市民からの信頼が厚いキリスト教会のパヌルー神父は集団祈禱を実施します。市民のほぼ全てがキリシタンで構成された街なので、それなりに発言力・発信力のある集会と考えてもらってOKです。この集団祈禱でパヌルー神父は「神はこれまで人類が悪と手を結んでいたことに対し、あまりにも長い間慈悲を持って見逃してくださっていた。しかし、いつまでも悔悛しなかった人々に対して神は待つことを倦み、遂に長いペストの暗黒へ落ちたのだ」と説きました。

このパヌルー神父は見方によって印象が大きく変わってくる人物であり、彼自身や信徒がペストと対峙する姿勢の変化や葛藤を中心に描かれた人物でもあります。彼自身は至って真面目で神父という職責に誇りを持っており、信徒に対しても心からの安寧を願っているように見えます。上述の説法も信徒の安寧を願ってのものでしたが、実際の感染症にとって有効なアドバイスは含まれていませんでした。幸いにも感染を拡大させるような内容を含まなかったものの、実質的には死を受け入れるよう大人しく待てと説いたことに変わりはありません。

しかし、彼の考えはペストによって幼い子供が苦しみながら死んでいく光景によって壁にぶつかります。ただただ無力に待ち続け、苦しみを受け入れるのは本当に運命なのか?幼い子供は何の罪に対する贖罪だったのか?

葛藤の末、パヌルー神父は信徒たちに「善を成すことに努めよ」と改めて説きます。ただ待つだけでなく、善を成すために行動するよう求めたのです。具体的には医師の元に保健隊が結成され、彼自身も率先して最前線で衛生活動に取り組みました。我流で謎の治療法に走らず専門家の指示を仰ぐあたり、彼本来の真面目な性格を表している様に思えます。彼は最終的に病気に罹患するも医師の治療を拒んで亡くなりました。最初の説法に対する贖罪なのか、信仰に対する意志の強さだったのか、明確な答えは書かれていませんがどちらも入り混じった結果の様に感じます。

責任ある立場というのは難しいものですね…。というか責任ってどうやって取ればいいんでしょうね?金を払って補填できる場合はまだマシで、多くの場合は取り返しのつかない問題に対して責任追及される場面の方が現実問題として多いと思います。現代日本は一応法治国家なので、最終的には法によって裁かれる手段があります。しかし、疫病・戦争など多くの命が失われる状況での判断に対する責任をどう裁けばいいのでしょうか?現行法の枠組みから外れた超法規的措置も必要になるとは思いますが、なにより責任者が責任を取ったと納得するにはどうしたらいいのか?パヌルー神父の最期を読み進めるなかで、そんなことを考えました。難しいですねぇ...。

 

 

4. 自宅への流刑、あるいは、愛する物との隔絶

物語中盤以降、いよいよ日々の感染者数が指数関数的に増え続けてくると、市民の行動にも厳しい制限がかけられてきます。日本の緊急事態宣言でも経験した通り、エッセンシャルワーカー以外は家でおとなしくしてなさいと言ったイメージで大丈夫です。現実世界と異なる点として、ロックダウン中の市民には食糧と生活必需品が完全配給制で与えられたため、職を失って生きていけない状況には無かった事は断っておく必要があるでしょう。

作中の194X年時点では通信手段としてのインターネットは当然開通しておらず、医師や為政者がギリギリ電報を使えるレベル、一般市民は手紙が限界という背景があります。しかも規制強化後は手紙の運び出しすらロックダウンの対象となってしまったため、ちょっとした散歩以外は家にいる以外何もすることが無くなってしまった。この状態を作中では「自宅への流刑」と表現しています。この状況下における心情を対照的に描いた登場人物として「ランベール」と「コタール」の2人を紹介したいと思います。

 

1人目のランベールは仕事でフランス本国からオラン市へ短期滞在していた若い男性。オラン市の住民では無いものの不運にも滞在期間中にロックダウンに巻き込まれ、地元に残した恋人と隔絶されてしまいます。ランベールはあらゆる手段を用いて街からの脱出を試みるも失敗に終わってしまい、その過程で希望や絶望など感情の起伏が多めに描かれた人物です。この物語の舞台が2022年現在であれば、インターネットを介した連絡くらいは取れそうですので、多少は彼の救いになったかもしれません。実際に我々の直面するコロナ禍では、仕事以外のプライベートにおいてもZoomを始めとしたビデオ通話サービスに大きな需要がありました。「自宅への流刑」とはなかなか的を射た表現に思えます。

また一方で彼は、「自分は巻き込まれただけでこの街には無関係な人間である」と何度も主張していますが、残念ながら感染症にとって戸籍や出自は何の意味も成さないし、それを理由に解放されるような状況であればそもそもロックダウンほどの強硬措置にはなりません。表紙の写真を元に考えると、オラン市は周囲をぐるっと城壁に囲まれた城塞都市。作中でも描写はありましたが、街を出るために設置された全ての門はロックダウン期間中、門番によって固く閉ざされている点で日本の緊急事態宣言とはだいぶ印象が違う点にも注意が必要です。

 

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2人目のコタールは元々密売で生計を立てていた後ろ暗い背景を持つ男。ペスト流行前の平時においては「いつ警察が逮捕しに来るかもわからない」と常に怯える生活を送っていたものの、ペスト流行後は警察もそれどころでは無くなってしまったため、コタール自身の心は非常に軽くなった作中きっての異端児として描かれています。

作中の全オラン市民はいつ自分が感染するか分からない恐怖に怯えて生活せざるを得なくなりましたが、コタール自身は怯える対称が警察からペストに変わっただけで、さらに彼はペストには感染しないだろうと楽観的にすごしていた節さえあります。それどころかロックダウン下では彼が生業とする密売によってさらに私腹を肥やし、明るく社交的な性格へと変貌していったの点も他の登場人物達と一線を画しています。

ここからは自分がコタールの姿に観たイメージを少しだけ書いていきたいと思います。完全に自分の受けた印象なので、的外れだったとしてもご容赦いただき読み飛ばしてください。

本作を読み進める中で、自分はコタールの姿にSNS上で「コロナ前後で生活に変化無い!」と叫ぶ「陰キャ」の皆さんを重ねてしまいました。第1回緊急事態宣言の際に顕著でしたが、突然の隔絶に酷く悲しみ、どうにか人と対面でのコミュニケーションを取りたいと願う人がいた一方で、普段から頻繁に人と会うことは無いから何も変わらん!と叫ぶ人々も一定数見られました。ネットスラング的に言うと前者が「陽キャ」の皆さんでランベール側の人、後者が「陰キャ」の皆さんでコタール側の人に見えたため、ここでは「陰キャ」の皆さんと呼称します(主語デカくてごめんなさい)。自分は当然のように「陰キャ」側の1人でした。

陽キャ」の皆さんが苦しもうと「陰キャ」の皆さんが何か得をする訳では無いものの、等しく底に落ちる感覚に謎の優位性を見出してしまう。密売なんぞに手を出さずとも、現代の我々の心にはコタールが住んでいるんだなぁと謎の発見をしてしまい少し落ち込みました...。他人の不幸に優位性を見出すな、という自戒。ごめんなさい。

 

 

5. 第n波、病態変異、そして終息へ

我々の直面する感染症と同様、本作でも第n波のような感染者数の波が何度か訪れますが、渦中のオラン市民は引いては寄せる終わりの見えない状況に大きく疲労しているようです。1ヵ月と言われれば1ヵ月耐えることはできそうですが、追加で1ヵ月、さらに追加で半年と期限が延ばされると頑張り切れなくなってくる。現実として経験してみると精神的な疲労は想像以上だったかと思います。

また、本作のペスト感染症は劇的な病態変化を伴い終息を迎えます。血清剤の開発は勧められていたものの画期的効果をもたらすまでには至りません。それどころかペストの病態は当初主流だった腺ペストから肺ペストへ変異し、医師リウーも治療というより罹患者の隔離指示しかできない無力さに打ちひしがれていく様子が描かれます。しかし、さらに時が経つと一転して手の打ちようが無い状態の患者が回復するようになり、一気にペストは終息を迎え、街のロックダウンが解除されて物語が終わりを迎えました。

この結末は何か人類が画期的手法を発明した訳でも、粘り強く封じ込めた訳でもなく、勝手に発生して勝手に終息したヤバいパターンです。「なんかよくわからないけど直ってしまったバグが一番ヤバい」とプログラマーの友人も言っていましたが、作中のペストも世界から根絶された訳ではありません。医師リウーは「人間に不幸と教訓をもたらすために、いつかペストが鼠どもを呼びさまし、再びどこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日がくるであろう」と締めくくっています。

 

 

おわりに

本作は第二次世界大戦という圧倒的不条理を感染症に見立てて書かれたフィクションでした。今現在の我々は感染症に加えて戦争行為まで始まってしまいましたが、この先どう言った状況に転じていくのか予想するのは困難です。しかし、作中描写と現実世界の出来事を比較してみると、不謹慎ながら笑ってしまうくらい似通った出来事が起きており、歴史は繰り返すんだなぁと思わずにはいられません。

大きな不条理に接した際、「あ、これはカミュの『ペスト』で読んだやつだ」と思い出せるようになると行動も多少は変わってくるのでしょうか?それともやはり何も買えられないのでしょうか?

考えさせられる一冊です。

 

ではでは